1 「江丹別」の語源
北海道は蝦夷と呼ばれ、旭川にも先住アイヌの人々の集落があり、各河川流域を生活圏としていました。
安政4年(1857年)に上川を探検した松浦武四郎が箱館奉行所に提出した報告には「マタクシエタンヘツ・イタンヘツ・イタンヘツ川筋」という地名が書かれており、その後明治20年に上川郡の植民地選定が行われた際の報告書にも「エタンぺツ原野80万坪」ということばがでてきています。
したがって、エタンベツの語源はアイヌ語から来ていることは明らかですが、その具体的意味合いはよくわからないとされています。
1つには(故知里真志保博士の上川郡アイヌ語地名解にいる)では「『エ・タンネ・ペ川』(頭・長い・川)の義であろうか」との説、
他には、往時、江丹別川にはウグイ、ヤマメが多数生息しており、アイヌの人々がこれを採ろうとして、誤って舟をひっくり返し、漂ったことから「エタンプベット」(漂う川)という地名が生まれたとの説もあります。
「イタンヘツ」あるいは「エタンペツ」というアイヌ語の地名があったのは確かであり、細長い江丹別原野を貫流する江丹別川は「頭・長い・川」を思わせるのに十分であり、いずれにしても江丹別村が開村するにあたり、「エタンペツ」を音訳して江丹別の文字を村名にあてたものであろうとされています。
※以上参考文献 「旭川市史」
また、旭川市博物館の「アイヌ語地名表示板」(江丹別市民交流センター前に掲示)によると、江丹別川の語源について「よくわからなくなった川名で、エ・タンネ・ペッ(頭・長い・川)又はエトコ・タンネ・ペッ(水源・長い・川)の二説あり、いずれも「水源までの距離が長い川」という意味である。アイヌの人たちは、この川を遡って、雨竜川流域に熊を中心とした狩猟に往来していた。」との記述があります。
2 江丹別開拓の歴史
明治時代になり、政府は、蝦夷地を北海道と改称し、国内植民地として、開拓政策が始まりました。
明治4年には、札幌に開拓使庁が置かれました。
明治7年には、屯田兵制度が作られました。
明治20年には、上川原野の植民地選定が始まりました。
明治23年には、旭川村、神居村、永山村がおかれました。
明治24年には、永山村に屯田兵の入植がはじまりました。
以下江丹別の開拓の歴史をおおまかにたどっていきます。
明治25年 | ・江丹別は当初、明治25年2月に開基した鷹栖村の区域内にあった |
明治26年 | ・1月に永山村の管轄となる ・6月には旭川村の管轄となる ・下江丹別の江丹別左岸に3戸の入植者有り |
明治28年 | ・6月、江丹別は鷹栖村に編入 ・下江丹別は、7月から9月にかけて本格的入植始まる |
明治31年 | ・上江丹別に3月から本格的入植が始まる ・伊納駅7月開設(旭川~滝川間鉄道開通) |
明治33年 | ・嵐山~神居(現伊納駅近く)の石狩川渡船始まる |
明治35年 | ・江丹別官設駅逓開所 ・芳野~鷹栖間川崎道路開削 ・冬、旭川市内で氷点下41°Cの国内最低気温を記録 |
明治42年 | ・馬鈴薯作付け始まる。後に15~20件程の澱粉工場が建つ |
大正初期 | ・澱粉景気に沸いた。作業の動力に水車を利用 |
大正7年 | ・11月上江丹別郵便局設置(当初は無集配) |
大正8年 | ・澱粉工場次第にその数減る |
大正11年 | ・旭川町が市になる |
大正13年 | ・鷹栖村より独立し、江丹別村開村 ・開村時の人口、398戸、2,214人 ・区域は「嵐山分水嶺を起点とし北方に辿り和寒村との境界に至る」まで |
昭和4年 | ・江丹別から旭川市8条通8丁目までの乗合自動車運行開始 |
昭和5年 | ・稲作本格化。総耕地の75%が水田となる |
昭和23年 | ・江丹別村農業協同組合設立認可あり、発足 |
昭和25年 | ・水力自家発電の電灯燈る ・江丹別村の人口最大(598戸、3196人) |
昭和28年 | ・下江丹別経由の旭川・江丹別間のバス路線運航開始 |
昭和30年 | ・4月江丹別村を廃し、旭川市に編入(江丹別歴代村長12名) ・この時に人口、531戸、2,870人 ・現江神橋完成。石狩川渡船廃止 |
昭和31年 | ・北海道電力の給電開始 |
昭和34年 | ・和牛導入。酪農飛躍的発展 |
昭和45年 | ・江丹別ダム建設 |
※参考文献 「旭川市史」「ふるさと江丹別90年の流れ」